第1章 代筆家のおしごと
吾輩は代筆家である
5.短文原稿は「手段」のしごと
短文原稿(手紙・スピーチ・レポート・エッセイ等)の代筆で留意すべき点は、小説や自伝など長編とはだいぶ異なります。そもそも、小説・自伝といったものは、それを作成すること自体が目的です。けれども、短文原稿は、誰かに提出したり、聞かせたりするためのものであり、原稿自体はそのための手段に過ぎません。原稿を依頼する行為は、手段のための手段ということです。ご依頼者は目的達成のために依頼をしてきています。だから私は、毎回こんな断りを入れますよ。
「あなたのご用命の原稿を私は一生懸命書きますが、あなたがこの原稿を使ってしようとしていることの目的を必ず達成できるとは限らないので、そこはご了承ください」と。
一番多いご依頼は、ご挨拶文や祝辞です。学校の卒業式・入学式、ロータリーやライオンズといった団体のアドレス、企業や組織の年度替わりやイベント開催に添えるメッセージなど。学校長やPTA会長、組織のお偉いさんといった方々からのご依頼で、用途は記念誌・機関紙に掲載される挨拶文や人前のスピーチといったところです。
こういったものには、言い回しや構成に、ある程度のパターンがあります。例えばPTA会長の挨拶だったら、「保護者の皆様、学校関係の皆様、平素はPTA活動にご理解をたまわり、厚く御礼申し上げます」といった具合。インターネットで検索すれば、例文がいくらでも転がっています。私のゴーストライティングの受付はWEBサイトのみです。つまりある程度ネットを使いこなせる人が依頼してくるわけですが、こんな方々が、ネット上に転がっている例文にたどり着けないわけがありません。それにもかかわらず依頼されるということは、それなりの事情、考えがあるはずです。
たとえば、転がっているフリー例文がタンパクすぎて、状況に適しない場合。基本的に公開されている例文は普遍的で穏便なものですが、現実には、語ることを避けるわけにいかない出来事があります。2024年現在でいうと、元日に能登半島で大地震がありました。数年前には新型コロナウィルスの大パンデミックがありましたね。海外の紛争が世界的インフレを起こし、日本でも業界や組織によっては大きな影響があったでしょう。全国レベルですらこうなのです。地域によっては、もっと固有の、近接した話題があるに違いありません。これらの時事情報をスピーチでまるっきり避けるのは、あまりきれいすぎる節(ふし)があります。当然、例文のままだと、使えません。例文に加筆する手がありますが、そういう奇策を思いついてなおかつ筆達者な人なら、私に依頼してくる必要は最初からないでしょう。
もう一つは、当人が真摯に取り組む場合。例文があるのは知っていても、自分が一つの役務を持ち、祝辞を述べる栄誉に与(あずか)るのだから、フリー例文を目の端に入れたとしても、手を出さず、やはりオリジナルを作成すべきだという信念です。だったらゴーストライターなんか使わず自分で書けと批判が起こりそうですが、そこは対価を支払うことでご当人の中で相殺(そうさい)されているのかもしれません。
なににせよ、私としては、ご依頼をお受けして必要な情報を取材し、適切な文字数の原稿を納期までに収めます。その筆法は前述のとおり、小説中に登場するワンシーンと仮想していったん書き上げ、中一日おいて磨きをかけます。あまり上手にならないように、かといって意味が伝わらないほどまずくならないように仕上げます。
挨拶や祝辞を依頼される方は、基本的に何かのリーダーです。常識的で、世間のメガネに叶う方々ばかり。ですから、依頼の仕方も、私の質問への回答も、修正のご指示も。一定の客観性を、それなりに持っておられます。
過去のご依頼でこんなことがありました。ご依頼者は何かの組織に所属し、任期四年の持ち回りの会長を務めておられる方。任期の最終年に、振り返りのスピーチをご用命いただき、私は腕を振ってそこそこ立派な作文を仕上げました。すると「大変によい原稿をいただきましたが、これでは次年度以降の会長さんが大変だから」と、あとの人を慮(おもんぱか)った修正指示があったのです。感心しながら泥塗り(下手にする)をしてお納めしたことがあります。
お手紙のご依頼は気を遣います。お礼状や引っ越し案内なら問題はないのです。謝罪要求、詫び状、抗議文、断り文。こういったものは、露骨な感情を表明するものだけに、匙加減が難しい。
怒りのこもった手紙のご依頼は、まずはご依頼者の熱をさますところからはじまります。そういうご依頼メールが届いた時、ご依頼者はまだ感情的なことがほとんどです。状況をよく聞きだし、手紙を出してどうしたいのか、相手から何を引き出したいのか、はっきりさせます。やりとりをする間に、ご依頼者はやや冷静になって、状況を客観視できるようになります。そうすると、怒りのこもった非難を書き送ろうとしていた考えが一転し、まずはこちらの不徳を詫びる謝罪を書いて、その後に請願する方が効果的だと気づいたりします。言葉は理性から編み出されるべきものです。言語化段階で感情的になっていては、よほどの詩人でもない限り、人が読むに堪える文章は生まれません。それは代筆でも同じです。
一つエピソードを。「親戚のお金持ちにお金を借してほしいと伝える手紙を書いてくれ」という若者からの依頼がありました。突拍子もない夢に投資をしてくれという内容でしたが、私は「どう考えてもそんな夢に投資をする人間はいないだろう」と思ったので、まずは自分の夢を直接聞いてもらえませんかと、折り目正しい対面挨拶の依頼の手紙を提案したりしたことがあります。いきなり金をくれと言い募る手紙なんて、誰が受け取ったって乗ってくれると思えなかったのです。提案は受け入れられ、その旨のお手紙をお納めしたことがあります。
センシティブな手紙の依頼は、手紙の目的を依頼者の言うがままに受け止めず、依頼者がその手紙で何をしたいのか、何ができるのか、解きほぐしてさしあげて最善策を提案する、「お悩み相談室」的な作業になります。感情的な文章は、火花を散らして喧嘩を売るようなものですから、絶対に良い結果になりません。だから、その手紙を言われるままに書けば、依頼者にも、手紙を受け取った誰かにも嫌な思いにしかならないのです。私だって、いくら商売とはいえ、仲たがいを促進したり人を嫌な気持ちにさせる手紙をお手伝いしたいとは思いません。できるなら、依頼者にとっても手紙の受け取り人にとってもハッピーな、お互いに歩み寄れるような仕事がしたいものです。そのためには、提案が大切です。どんな手紙を出せば、相手はどう反応するか。それに備え、依頼者はどういうリアクションを用意しておくか。時には2、3手先まで、おせっかいかもしれませんが、提案させてもらうことがあります。
こういう話をすると「なんて気の重い商売だ」と思われるかもしれません。確かに気の滅入るご相談もあります。どう考えても依頼者に理が無かったり、依頼者があまりに非常識・ルーズだったり。
けれども――こんなことを言うのは、まずい気もするんですが――正直、私としては、それらの依頼を楽しんでいる節があります。人間社会への好奇心と言いましょうか、普通では覗(のぞ)けない人々のエゴ、妬み、わがままといったものを、直接本人から聞きながら、一つの糸口を見つけていく過程は、小説創作をたしなんでいた私としては、興味深い風景だったりするのです。それを面白がれるのは、私自身が人間としてそれほど純粋ではなく、変に正義かぶれしていないこともあるのでしょう。これは適性です。ゴーストライティングは、正義感の強い人は向かないかもしれません。他人の業を自らに引き受けて、それでなお平然としておられる人の方がよいでしょう。
様々な無茶な依頼を真正面から受け止め、提案と脱稿を繰り返していくうちに、どんな依頼が来ても拒否感がなくなり、対応できるようになっていきます。「ぼく、この仕事、ちょっと出来るようになってきたかなあ?」と思ったのはごく最近。代筆家になって8、9年経った頃でしょうか。早いのか遅いのか分かりませんが、まだまだこの仕事で学びたいと思っています。素直に。