文商 文田中

言葉の価値を開発提案する文章作成の総合事業

公開ライブラリ

『代筆家千夜一夜』

第1章 代筆家のおしごと

余はいかにして代筆家となりにしか

3.小説は案外アバウトに捉えられている

 小説の代筆業務をスタートして気付いたことは、「概してお客様は、小説というものを、アバウトに捉えている」ということです。アバウトというと、何か漠然とした、関心のぼやけた対象のように感じられますが、ここでは「半分その通り、半分違う」と申し上げておきましょう。

 お客様とやりとりしていると、持ち込まれたプランの小説化にあたり、お客様がファクターと表現形式を「全く別物」として意識しておられることに気付きます。ファクター、つまり、ご自身で温めたアイデアや登場人物への愛着は、生半可じゃありません。へたに提案を差しはさもうとすると、強い拒否反応を示されます。頑(がん)として自分のひらめきを貫き通そうとするのです。それなのに、アイデアを言葉で並べて小説にするにあたり、他人に任せることになんら抵抗がない。もちろん文の巧拙や表現の好き嫌いはありますが、いいと思ったら誰に任せたってかまわない――少なくとも「自分」である必要性はないご様子。このギャップ、アンバランスにはびっくりです。

 最初は戸惑いました。もともと文芸同人サークルで小説を書いていた私にとって、小説は自分の理想や情熱を物語に託す神聖な行為、一種の「祈り」であり、他人に任せていいものではないと思っていました。だから、お客様にありがちなそのアバウトな姿勢は理解しがたかったのです。「じゃあなんで小説代筆なんぞおっぱじめたのだ?」と突っ込まれたら苦しいのですが、先述の通り、長期療養していた友人とのつながりのためです。そこはご理解を。

 そんなこんなでお客様のアバウトプレイを理解できないまま、依頼の数を重ねるうちに、私の感覚はだんだん変化してきました。しかも自省的に。そもそも私は、小説に対してかなり気負っていた、言葉に対して偏った情熱を燃やしていたのかな、と思うようになりました。元来言葉はコミュニケーションの道具で、その言語の話者たち(文明や民族)に共有されたものです。歴史ある言語は、語彙(ごい)が豊富で文法が洗練されており、ひとつの状況を描写する一文は意思者の数だけ生じうるという多様性の高さがあります。日本語はもちろんそういった高機能言語に含まれるでしょう。そこで純粋に「うまく伝わる」「よく伝わる」を求めるにあたり、自分より言葉のあしらいがうまい人に託した方がファクターが生きると思ったなら、そうするに越したことはない――という考えは「アリといえばアリかな」と気付いたのです。

 この気づきは、私の文章観・小説観に影響を与えました。従前の私は、言葉と自己の結合に妄信的な価値を抱いていました。自分の頭を悩まして言葉を選ぶからこそ、創造の霊験(れいけん)をこの身にあびせ、作品と高次に交わる――といった、いまに思えば奇妙奇天烈な儀式(イニシエーション)ですが、まあそれくらい偏執狂的だったわけです。けれども、いまは「依頼」「業務」という責任の側面をもったことで、熱っぽいウブさが払拭(ふっしょく)されました。文章表現は、言葉と意味の結合を合理的に伝達するメソッドであり、基本的にメソッドにそって言葉を連ねていくのが、よりよいコミュニケーション、万人に求められる作文術なのです(修辞(レトリック)については、またいずれどこかで語りましょう)。

 ちなみに、お客様の中には、作品そのものより、印字する、綴じて製本するといったことに重きを置く人もいます。配本や流通など出版行為にご執心の方もおられます。「自著がある」という事実、この世にその本が存在しているそのことが、本の中身に勝(まさ)っているわけです。中身なんてどうでもいい――とまでは思っておられないでしょうけれど、こういった方々には、少なくとも「誰が書いたか」は大事じゃないでしょうね。それはそれでいいと思います。形から入ることも大事ですから。むしろそういった作品の「中身」をお任せいただけることが、私の大切なおしごとです。

 中身重視の場合でも、コミック・映像・舞台の原作を所望される方にとっては、小説は発案を具現化するためのコードに過ぎませんから、表現形式に重きをおくことはないでしょう。

 まあ、小説表現に重きを置く人は、小説を書く行為自体を好んでおられるでしょうから、そもそも代筆業者に依頼しないですよね。頼むくらいなら自分で書くわ、って。一応、私も、自分の趣味で小説を書く場合は、そのくちです。

文商 文田中

ふみしょう たなか